ゆゆ式は何故凄いのか。そして何故ゆゆ式の世界は幸せなのか。

2015年10月19日


 勢いで書いているのでいきなり本題から入る。



 「ゆゆ式は何故凄いのか?三上小又先生は何をどう描いているのか?」

 ゆゆ式の作者である三上小又先生が描いている物は、表面上は
「キャラクター」と「会話」「動作」であるが、ここではそれ以上のことを言いたい。
三上先生はそれと同時に、「その世界の法則」を描いているのである。

 言い方が雑だったかもしれないが、もっと細かく言うと、
ここでいう「その世界の法則」とは、たとえば「言語」であったり
「知識」「感情」……といったあらゆる物であるが、
特にここでは「言語外の言語」について重点的に書いていきたいと思う。


 わけがわからなくなったので、一旦仕切りなおす。

 すでにこれは散々なされてきた議論であるが、
『ゆゆ式』とは「言語外の言語、言語になる前の言語を大々的に取り入れた作品」である。

 言語、特に日常会話とは、その多くは「言語にならない言語」によって担われている。
たとえば「共通の知識」「身振り手振り」「会話からなされる推測」などである。
人間の会話がそうである以上、他の多くの漫画でも多かれ少なかれそう書かれている。
 ゆゆ式はそこに配分する割合が物凄く多い作品なのだが、
ゆゆ式が本当に凄いのはここからである。


 まず、この「言語外の言語」について解説をしたい。
「言語外言語」というのは実際にはどのような心理機構なのかというと、
その本質は「推測」である。
 相手の発した言葉から「推測」によって相手の真意を得るのである。

 喩えるなら、投げたボールを目をつむってキャッチすることを思い浮かべて欲しい。
何も解らない状況では目を閉じてボールを取ることは難しい。
 しかし、ボールが動く放物線やスピードから、着地点とタイミングを
予測すればキャッチすることは可能である。

 ゆゆ式はそれを「言語」で行っているのである。投げられた言葉が
断片だとしても、その言葉が発せられた経緯が推測され、
作中でそれを受け取り解釈した誰かかがまた新たに発言する。
 他の人物はその発言を、先の言葉がどうやって解釈されたのものかを推測し、
また発言する。このように「推測・発言・推測……」という言語外の言語による
推測の応酬、というのが『ゆゆ式』の根幹である。

 では、「ゆゆ式のキャラはそんな面倒臭い思考を常に回しているのか」と言われると
半分はそうだと言える気がするが、半分はそうでもないと言える気がする。

 何故かというと、この「推測の応酬」というのは、ゆずこ達にとっては
もはや「無意識の領域」においてなされているようにも見えるからである。
 むしろ、無意識によってなされているから気持ち良いとも言える。
 


 さて、この「無意識領域の言語外言語」というのがまたややこしい話で、
ここからさらに事態はこみ入った話になる。

 先も言ったように「言語外の言語」というのは人間誰しも使っていることである。
無意識領域における「言語外の言語」も普通の人間なら使っているはずである。
だが、それを漫画の中に取り入れるとなると、一つ大きな難題が現れる。

 それは当然「読む人によって言語外言語の解釈がまちまちになる」ということである。
言語外言語の解釈が異なると作品内での会話のつながりが破綻してしまう。
ゆゆ式において三上先生はどのようにしてこれを回避しているのか?



 それは「作品内での言語外言語の作用を、キャラクターを通して表現し、
それを読者に許容&学習させる」という方法である。(意図してるのか解らないけど)

 『ゆゆ式』の作中において情報処理部に会話をさせる、ゆずこが突拍子も無い
ことを言う、縁がそれに乗っかる、唯がつっこむ。そのような流れを何回か
繰り返していく内に、「彼女はこういうこと考えそう」「彼女はこれを止めそうだ」
「彼女のやることはよくわからない」といった言語外の経験と知識が蓄えられる。

 これにより読者の意識は作品内にグッと近づく。ゆゆ式の凄いところはここにもあり、
作中の三人が全員、読者と同じように相手の真意を常に探っているのである。
つまり、読者の意識は作中の三人の意識とほぼ同化するのである。

 このような「推測」、言わば「言語外の言語を学ぶ練習」を繰り返していくことで
「共通の知識、認識、法則」といったものが形成されていく。これは読者に
形成されると同時に、作中の三人とも擬似的に共有される物となる。 


 なお、ここでいう「共通の認識」とは、そこまで強固な物でなくていい。
むしろ、もっとふわっとして曖昧な物でいい。「コイツほんとわけわからん事言うわ」
「コイツほんと良い返ししてくれるな」ぐらいでいい。
 相手のことを完全に推測しようとするのでなく「予想外のことが返ってくる」
方に期待するのである。この方が「言語外の言語」をふんだんに使った
コミュニケーションの楽しみを、より一層味わうことができる。

 「言語外言語」の一番大事なことは、会話をする上で決定的な齟齬が
起きないようにすることである(起きてもいいけど、リカバリーができるように)
むしろ、曖昧であるほうが無意識の領域に落としやすく、気持ちがよい。
 要するに「言語外の言語」は実用に足れば何でもいいのである。


 「共通の認識」が読者と作中の間で一度共有されてしまったら、
あとはもうとにかく遊ぶだけである。この状態であれば先に例示した
「言葉の目隠しキャッチボール」を好きなだけすることができる。
 何を言い出しても、そこから「推測・発言・推測……」という流れを
してくれる確信がある。楽しさと安心感から良い循環が生まれる。

 投げた言葉のボールが見えないところを好きなように飛び、
思いがけないところから思いがけなく、しかし落ちてきて欲しいところに落ちる。
これ程までに楽しい遊びはない。
 だらだらしたコミュニケーションの一番楽しい部分を、全て詰め込んだような会話が続く。
これがゆゆ式の最大に素晴らしい部分なのである。


 このように、登場人物と読者の間で「共通の認識」「共通の言語外言語」を持った状態で
言葉を投げあう。じゃれあう。笑う。かつてこれ程までに甘美でユートピア的な作品が
あっただろうか(沢山あるかもしれないが、少なくともなかなかお目にかかれない)

 作中を通して読者と「時間」や「経験」を共有するだけでなく、「言語外の言語」を
共有させることが、これ以上ない生々しさと多幸感を産み出しているのである。



 ところで、この「共通の認識」というものがどうやってデザインされるのかと言うと、
身も蓋もないことを言えば、「三上小又先生のさじ加減一つ」である。

 作中で登場人物がどれくらいの「共通の認識」を持っているのか、それを三上先生が
好きなように決められる以上、読者を含めたこの世界の全ての法則は三上先生の手の内である。

 三上先生は『ゆゆ式』という世界の「キャラクター」だけなく、
その世界の精神の法則的な「言語外の言語」を全て支配している以上、
三上先生が「幸せであれ」といえばゆゆ式の世界は幸せなのである。

 そして、三上先生は今のところ常にゆゆ式に対して「幸せであれ」という
姿勢を崩さないでいてくれている。
 それによって『ゆゆ式』の世界は未来永劫幸せなのである。


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